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  『湊川、私の学校』登尾明彦著


■ここに真の教師がいる、原初の学校がここにある。「私の学校」と言い切れる教師が今どのくらいいるだろう。
 湊川高校は兵庫県立の定時制高校です。先の阪神大震災では被災民の避難所になりました。この学校では朝鮮語を必修科目にしています。 本書は、この学校に30年間勤務し、生徒と向き合ってきた教師の実践記録です■

ISBN4-88323-111-9 1999年5月刊 四六判240頁  本体価格2,300円+税


[著者略歴]のぼりお/あきひこ1943年京都市生まれ。立命館大学卒業。兵庫県立湊川高等学校勤務。著書:詩集『パンと貝殻』、共著『はるかなる波涛』(明治図書)、『授業が生きる光となる』(国土社)などの教育実践記録がある。

◇目次◇    
プロロオグ
 拠り所は何か、ということ     
私自身のためのノオト
  自分のこと/私はいつも遅れて、来た/詩を生きる/あの過ぎ去った日々 
湊川、私の学校  
 今、私たちの全体、かまたは一人ひとりに/欠けている事柄は何なのだろうか/〈 湊川〉は、
なぜなくてはならない学校であるか/湊川の若い教師たちに/学校が学 校であるためには/教育に 携わる者が心すべきことは/定時制高校の教師として今 考えること/同和教育について知らなく ても教師にはなれるが、同和教育につい て知らなければ教師はつとまらない/「同和」教育の初 心を貫く/人間を作る   
劇的なるもの  
 オモニたちの卒業/私の学校―ウリエハッキョ/星めぐりの歌/星を集めるうた/人 間の街・神 戸1995/遙かなる日本を生きて/湊川、私の学校   
〈朝鮮〉と〈日本〉の出会うところ  
 〈朝鮮〉と〈日本〉の出会うところ(1)/〈朝鮮〉と〈日本〉の出会うところ (2)/〈朝鮮〉との出会い、私の場合/私の朝鮮語   
阪神大震災と長田  
 街が消えた、人間が残った/阪神大震災と湊川   
エピロオグ  
 出会いも、別れも、あの旧い校舎とともにあった       
あとがき


   教師の原像、詩人の原像
             金 時 鐘

 問いを忘れないのではなく、登尾明彦は自己への問いを生きている人である。30年も教職にたずさわっていながら、なぜ教師になったのか、は今もって止むことがない繰り言のような自問であり、部落も朝鮮も、はたまた身障生徒、勤労生徒の重い現実も、それらを丸ごと抱える湊川高校の存在理由と相俟って、彼には自明の教育実践の課題のうちのものである。30数年もまえ、一切の差別を許さないという教育実践を手探りで始めていったのは、経営困難校で知られる湊川高校の教師たちであったが、そのただ中で人権意識を深めていった登尾明彦にして、社会的弱者の側に自分がなぜ立っているのかは今なおゆるがせにできない、自分自身の内奥の問いなのだ。  
  全人的な教育実践に呼応して、私も17年間湊川高校の教員を務めた。教師は詩人であるべきだというのが私のかねてからの持論だが、赴任当時すでに、登尾明彦は『パンと貝殻』という詩集を出していた教師であった。恵まれない体躯でゴンタたちのあららいだ声に眼をしばたかせながら向き合っていた彼を、職を辞して10年にもなるが忘れられない。教師の原像だけでなく、私はむしろ在るべき詩人の原像をもそこに見てきたようで、想い起こすたびに瞼がうるむ。


▼「あとがき」より

〈湊川〉で今春、30年が過ぎた。〈湊川〉というこのたやすくない学校で、私のような者がこれだけの期間、よく続けて来られたというのが正直なところだが、その原動力は、生徒にあった。生徒といっても押しなべて、ではない。部落、朝鮮、沖縄、「障害」者等々、差別や貧困の悪条件と闘っている生徒たちでむろんあったが、いうまでもない。彼らが発する問い、が私を撃った。学校とは何か、勉強するとはどういうことか、教師とは何か。
 定時制高校は、30年前とはずいぶん趣が違っている。〈湊川〉も夜間中学校卒のオモニたちハルモニたちの在籍が多いし、中学時代まで不登校、登校拒否を続けてきた生徒も少なくない。それもこれもあわせて〈湊川〉は、学校の原初の形を留めている。この思いが、定時制高校教師としての私の起点に、今もある。

  私の朝鮮語  
 朝鮮語について、書く。というよりも朝鮮語と私、あるいは私の朝鮮語、について書く。  
 言うまでもなく〈湊川〉は、朝鮮語授業が正課として設置された最初の学校であり、その歴史は20年前に溯る。つまり20年前の1973年に、日本の公立高校で初めて朝鮮語が第二外国語として開講され、詩人の金時鐘さんが赴任された。その折々のことは、先生の『「在日」のはざまで』に報告されている。朝鮮語授業が根づくまでの担当教員の苦衷が、一通りのものでなかったことを知らされるが、詳しいことは先生の著書に譲るとして、私はここでは次の点を書きとめておくに留める。  
  つまり、朝鮮語授業が日本で最初に開講されたのが〈湊川〉であったということ。または、〈湊川〉でなければならなかったのはなぜか、という問題。このことは〈湊川〉をも、〈朝鮮語〉をも、それぞれに考えさせる。  
  ひとつには、語学教育の中で占める朝鮮語の位置、というものがある。日本人が外国語を学ぶ時、それはすでに当たり前のこととして、英語、ドイツ語、フランス語、といった欧米の言語が対象となっているのであって、中国語や朝鮮語が脳裡をかすめる、などということは、まずもってなかったといえるだろう。  
  すなわち、戦後の「民主」教育は、体制・反体制を問わず、朝鮮問題を欠いていた。〈朝鮮〉を欠落させたことを恥じずにきた。このような大情況のもとにあって、日本人の朝鮮観は歪んだまま放置された。糾され、直されることはなかった。  
  とは言っても、アジアに眼を向け、朝鮮語を学ぼうとした人も、いるにはいたであろう。だが、朝鮮語開講にまで思いを馳せた人は、どれだけいたであろう。  
  ここでいう朝鮮語授業は、いま流行りのハングル講座とは、成り立ちが違う。〈湊川〉のそれは、基底に部落問題がある。同和教育運動を軸として、社会的に底辺に置かれている生徒たちと対面してきた。その実践の積み重ねが、〈朝鮮〉との出会いを確固とした。部落問題を視野に入れずに取り組まれる語学講座と〈湊川〉の朝鮮語授業は、一線を劃しているといえるのである。  
  では、私の朝鮮語とは何か。  
  こだわりが私にあるとすれば、日本及び日本人は朝鮮にとって何であったか。あるいは自分を問わなければ、朝鮮語は私には学べなかった。  
  つまり、こういうことだ。知識または教養として外国語を何かひとつ物にしたい、会得したい、という気楽な気分で朝鮮語と取り組むことは、私にはできなかった。あるいは、してはならないと思った。純粋に言語として朝鮮語を学ぶ、という程度の受けとめからは、少なくとも私は超えていなければならない。なぜかなれば、朝鮮民族から言葉を奪った側の日本人の、私は末裔だからである。(本書より)

 

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