知里幸恵(ちり・ゆきえ)──十七歳のウエペケレ』
藤本英夫著

知里幸恵生誕百年記念出版/幸恵伝記の決定版 
          [ウエペケ
アイヌ語で民話・昔話のこと]

    体裁:四六判 本文336ページ 
        定価 本体2,500円+税 ISBN4-88323-128-3

◎知里幸恵生誕100年記念出版!
だれにでも「青春」がある。これは19歳で亡くなったアイヌの女性・知里幸恵の青春の物語。幸恵は「アイヌ最後の最大の叙事詩人」(金田一京助)である祖母・モナシノウクの「お婆ちゃん子」としてかわいがられて育った。祖母の懐で寝物語に聞いたアイヌの世界を『アイヌ神謡集』という本に書き残して夭折。このような伝承の形は、いまの日本では忘れ去られてしまった。本書は、著者が30年にわたって幸恵を追いもとめ、アイヌ世界の伝承を体現した幸恵の生涯を入念に描いた決定版である。    

本書《目次》より
1 東京で死んだアイヌの少女/2 知里家と金成家/3 アイヌにもあった創氏改名/4 ヌプルペッ=登別の少女/5 コタンに咲く花/6 秘話一つ/7 新しい母校/8 「知里幸恵は旧土人なり」/9 「海が懐かしくて……」/10 「近文の一夜」/11 十七歳のウエペケレ/12 「此の砂赤い赤い」/13 幸恵恋譜/14 『炉辺叢書』/15 『ウタリグス』/16  東京へ──少女の旅/17  Shirokanipe ranran pishkan 18 ハイタヤナ

                                                                  

本書《ぷろろーぐ》より
 「銀の滴降る降るまはりに、金の滴
 降る降るまはりに。」と云ふ歌を私は歌ひながら
 流に沿つて下り、人間の村の上を
 通りながら下を眺めると
 昔の貧乏人が今お金持になつてゐて、昔のお金持が                                                            
 今の貧乏人になつてゐる様です。
 海辺に人間の子供たちがおもちやの小弓に
 おもちやの小矢をもつてあそんで居ります。 
 「銀の滴降る降るまはりに
 金の滴降る降るまはりに。」といふ歌を
 ………
 ………                                                              (知里幸恵『アイヌ神謡集』大 ・8 郷土研究社版より)                                         
 最近はこの詩、耳にする機会が多くなった。若い人のなかには、ここ十数年、中学校の国語教科書に載っているので思い
だす人がいるのでは……。                                           
 『声に出して読みたい日本語』(斎藤孝 草思社)という、よく売れている本がある。そのなかの「物語の世界に浸る」の章に、川端康成「伊豆の踊子」、紫式部「源氏物語」、芥川龍之介「蜘蛛の糸」などと並んでこの一節がある。それをみたとき、私は嬉しくなった。この詩を世におくった、″知里幸恵″という女性の生涯を長いあいだ追いかけてきていたので──。
 知里幸恵は、北海道登別生まれのアイヌの女性である。
 明治36年(1903)6月8日生まれ(戸籍上)、大正11年(1922)9月18日、19歳3カ月で夭逝した。明年(2003年)は生誕100年であるが、彼女の著書、『アイヌ神謡集』(大 ・郷土研究社)発刊80年とも重なる。ここに掲げた詩は、その本に収められた最初の「梟神が自ら歌った謠『銀の滴降る降るまわりに』」の冒頭部分である。                                                  
 『アイヌ神謡集』は菊半載判(A6判より少し大きい)の小さい本であるが、本文122ページ、13篇のアイヌの神謡が収められ、巻末資料1のように左側ページにアイヌ語がローマ字、右ページにその一行々々が和文対訳されている。
 著者の知里幸恵も、私が、昭和48年(1973)『銀の滴降る降る』(新潮選書)で紹介するまでは、一族以外、アイヌ研究者にさえ顧みられていなかった。私は、その後にも、彼女の評伝を改訂してきた(草風館・1991年)が、最初に手掛けてから30年たつ。当然、私も年齢を重ねた。考え方も変った。それに、資料の読み込みも深くなってきた。それにつれて、私は、もう一度、彼女に挑戦したくなり、彼女を主人公に、そのまわりの人々の物語を書くことにした。
 彼女は死の前に、表紙に『日誌帳』、「大正11年6月1日以降」と書いた小さい手帳を遺していた。それには約85ページ中28ページの「手控え」がある。
 そこには私の知らない"人間・知里幸恵"がいる。
 読むと、誤字・脱字もある。推敲もしていない。これは人に見られることを予想したものものではなさそうだ。
 しかし、彼女の評伝を改稿したい私は、これを借りたいと思った。
 新しい″知里幸恵″に近づくためには、どうしてもこれがほしい。他人に読まれることを予期していなかった彼女を思うと、ためらいながら、まことに勝手なことだが、詫びながら、巻末に資料として掲載した。
 例えば次も、私の知りたい知里幸恵がいる「手控え」の一部である。巻末掲載の資料と重複するが、読んでいただきたい。「A様」というタイトルは、便宜上、彼女の1行目から借用した。 
右欄写真:〈上〉
知里幸恵(14歳)〈中〉母ナミと伯母マツ〈下〉祖母モナシノウク
  「A様」(資料2)
P75
1 A様 初秋の風が青葉を
 2 渡ってそよ と梢々を揺るがせる
 3 頃になりました。
 4 同じ学窓に学び雪まだ
 5 消えぬ 消えやらぬ三月に涙して
 6 お別れ致しましてから早や三年
 7 秋はこれで三度訪れ                                                       
 8 ます。其後級友の
 9 どなたにも殆どおたよりを
10 承ったこともございませぬが
11 定めし御壮健で幸多き
12 日々をお送りの事と存上げ
13 ます。A様、かく申し上げる
14 私を貴女はたやすく
15 貴女の名はたやすく
16 貴女の御記憶にあらはれ
17 出されませう。何故なら
18 私はほんとうに学校
19 でも特別な生活
 
P72
1 生徒でしたから。
 2 在学三ヶ年間、私はどなた
 3 ともしんみりとした友情
 4 を持って語りあったことは
 5 ございませんでした。だから
 6 卒業後の今は学友のう
 7 ちから真の知己という
 8 人を私は持ちもちません。
 9 雨雪のちら 降る日、
10 雨がそぽ と降る朝、
11  私は一人教室の
12  唾や気□
13 それは当前のこ□
14 あたまへりの事です。貴女方
15 には何うしても私といふものゝ
16 心持ちわかっていたゞけなかった
17 のです。そして私も貴女方
18 に親しみを持って私の心持を
19 知っていたゞかうとお話申げる
 P73
1 ことが出来なかったのです。
 2 ですから貴女方と私の間には目
 3 に見えない厚い壁が築か
 4 れてゐたことを貴女方は御存
 5 じなかったでありませう。
 6 A様 何卒しばらくおきき
 7 下さいませ。私の生ひたち
 8 さう申しましても、別に世の人と
 9 変ったことありませんでした
10 □の母 □の母の港の 温い□の母
11 のふところに育まれ、
12 五つ六つの頃は年老ひた
13 祖母とたった二人で山間の
14 畑にすみ、七つの時旭川の
15 伯母の所へ参りまして、
16 御存じ近文部落アイヌ
17 小学校に学びそこで
18 尋常小学科をへて
19 くやしい…さう思う私の
20 生活は実に学校
 
 読むと、いつ、これが書かれたかに迫ることができる。
 75P4〜7行に、「学窓…三月に涙してお別れ…秋はこれで三度訪れ」とある。知里幸恵の旭川区立女子職業学校卒業は、大正9年(1920)3月だから、それから三度目の秋、それも1行目の「初秋」は、大正11年の、ということがわかる。彼女は、この年の9月18日死を迎えているから、それより三週間たらずの前に、これを書いたわけで、手紙を除くと、彼女の絶筆ということになる。
 「A様」には、級のだれかれの顔がたくさん重なっていたことであろう。
 73P15の「伯母」は、バチラーに導かれて聖公会の伝導婦になった金成マツのこと=。また73P13の「祖母」は、マツの母・モナシノウクで、金田一京助が、「私が逢ったアイヌの最後の最大の叙事詩人」(「近文の一夜」)と絶賛した人だ。
 マツは、母が伝承していた金成家のアイヌ・ユーカラを流麗なローマ字で七十数冊のノートに筆録、昭和3〜19年(1928〜44)、金田一京助あてに送っていた。その一部は金田一訳で、『アイヌ叙事詩ユーカラ集』(三省堂)のなかに収められている。幸恵も、モナシノウクやマツから聞いたアイヌの口承文芸を筆録、大正10〜11年(1921〜22)金田一あてに送り、彼女の『アイヌ神謡集』はこれがもとになったものである。
 マツは大正7年、金田一に初めて会ったとき(「近文の一夜」)、「幸恵は、お婆ちゃんっ子なものですから大人も及ばないユーカラをやる」と話している。
 知里幸恵理解は、この「お婆ちゃんっ子」がキーワードであることが、遅まきながらようやく私は、最近、理解できるようになった。つまり、幸恵の「お婆ちゃん」=モナシノウクという人は知里幸恵が形成されるうえでの欠くことのできないキーパーソン、だったことになる。
 私のこの本は、知里幸恵の生涯における、モナシノウクの意味をさぐることにもなる。

 

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