■都会に蝟集する現代中国の浮浪者たち。日々増え続ける彼らは、何故、家、故郷を出たのか。いかに生き、何を訴えているのか? うごめく”阿Q”世界に身を挺し、初めてその実態を赤裸々に解剖した渾身のドキュメンタリー。
家ある者は家を出て 家なき者は家探す 兄さん姐さん ともに手を組み 天下の飯拾いは みな家族 (山東省一帯に流行)
この手は生きた 福の神 手招きすれば お金やってくる 厚顔無恥とて 恐れはしない 皮が薄けりゃ 生きられぬ (湖南省一帯に流行)
ISBN4 -88323-050-3 C0098 四六判214頁 1991年刊 定価 本体2,000円+税
〔目次〕
序 文
第一部 奇妙な浮浪者部落
一 ″ラツ″の奇遇 新参者/奇怪な隠語/ヒエラルキーの王国 二 王国の内幕 謎のナンバー″0″号/部落の征戦/統治の秘密
三 寄る辺なき旅 無賃乗車の″飛虎隊員″/施の″記念″/支離滅裂な″風景″ 四 乞食の鍵 文字″広告″/動く″銀の箱″/お宝の″招来″/働いて″臨時収入″を得る/子供の″貸出し″
五 野蛮な生活 間抜け型/山サソリ型/海賊カモメ型/田鼠型
第二部 さ迷える女性たち
一 女乞食、一つの謎 二 大海の小船 やみくもの家出/すさまじい生活/いまわしい病/のろうべき輪 三 天使か悪魔か 言葉たくみに騙す術/″微笑″の特技/″涙″の罠/″ル美しさ″の誘惑 四 零落 九歳の歌い女、小芹/赤い服の少女小L/営南県出身の強情娘YL/広西出身の娘、
慮××/広州出身の女子学生、阿Y/″四弁の金の花びら″の母、孫艶/男装の″小香子″/ゴミ事を押す 老婆、劉五香 五 傷痕
一五七人の唾/犯された者の心/六日間絶食の滋味/死の淵の感覚/収容所の印象 六 良知の光 ″小観音″/女剣客/守り神
七 日覚めよ、女性たち
第三部 歪んだ文化を求めて
一 歌謡 物乞いの歌/祝いの歌/ののしりの歌/慰めの歌 二 伝説 準神話/笑い話 三 奇癖 ″刺繍″/″金バッヂ″/″絵画″/″パンチを食らう″
四 祝日 元日/春節/誕生日/国慶節 五 娯楽 日光浴協会/タバコ大賞/デート現場のピーピンク・トム
第四部 乞食の心情
面子なんか一文の値打ちもない/家なんて関係ない/人生は楽しみを求めるもの/人間は運命にかなわない/俺は運を試してみたい/ 俺は自由人だ/現世では苦を受け、来世には福を授かる/僕は父ちやんが憎くてたまらない/地獄はすなわち天国さ/私たち、居住登録のある市民ょ
第五部 乞食と社会の衝突
一 世俗と生存 街頭の老人と孫/″ゴミの家″の老主人/″旅行団″の″婦人主任″ 二 制約の無常 彼はいかにして″スクラップ大王″になったか/彼はいかにして
″列車魔″となったか 三 現実と憂慮 ″盲流″の悪循環/乞食の若年化傾向/乞食のなかの党章所持者/ ″単純な″同情や憐憫は″犯罪″と大差ない
第六部 乞食と交渉を結ぶ者たち
一 夢遊病者と覚醒者 飴と苔/野狐と闘う鷹/科学的人相術 二 釣り人と釣られ人 ″身は曹営にあれど心は漢朝にあり″/″孫悟空、鉄扇公主の腹に潜りこむ″/″犬が犬を咬んで鬼現わる″
三 収容者と逃亡者 ″網を打″てば、″変装″する/取り調べとごまかしと/賀風林の場合/韓風根の場合/藩維夫の場合
第七部 新生活に向かう人びと
〃放蕩息子″改心して新妻を操る/″騙り″が″鉄牛″を操る/″不正収 入の神様″″まっとうな道″につく/″迷い蝶″闇より脱す
エピローグ
〔訳者略歴〕 1948年東京生まれ。明治大学政経学部卒業。現在、執筆翻訳編集業。
著訳書、近代化への挑戦―柳田国男の遺産(ロナルド・モース),中国芸能史(傅起鳳),中国の生命の樹(之林著),三国志,全国地方史誌文献案内1989/1992
1991.10.6 神戸新聞
浮浪者(こじき)。この有史以来の「奇妙な存在」は、今も世界的に増えつつあるという。本書は“世界のこじき化現象”を視野に入れつつ社会主義中国に遍在するこじき社会に潜入し、あらゆる種類のこじきたちにインタビューして.ついにその実態を明らかにしたドキュメントである。
彼らはなぜ家を出、故郷を後にするのか。そしていかに生き、何を訴えているのか。中国におけるこじきの発生は単に経済問題だけでなく、一種の文化問題とみる著者は、魯迅の言う「阿Q的精神」の再考を、中国人のみならず世界の人びとに訴え掛けている。
1991.10 埼玉新聞
乞食は原始共同体が解体して以来、不断に再生産されてきた。国家が形成され発展する過程で不可避的に生み山されてきた。国家の枠の外にはみ出し、はみ山された存在なのである。この数世紀、人類の歴史は自由、平等、博愛を目標に発展してきたにもかかわらず、世界的に乞食の数は増え続けている。乞食に発生は社会現象であり、人間の性(さが)の問題でもある。だからこそ、古代から解決されていないテーマであり、常に新しいテーマなのである。乞食を捨象してしまっては新しい街つくりはできない。
本書は中国が開放政策をとり出した1985年以降現れた「社会問題報告文学」の先駆けとなった作品である。著者劉漢太は乞食の世界に人って、同時代に生きる者の責務として、その実態を追究している.彼が出会った一人ひとりの乞食を列伝風に記述しつつ「阿Q的精神勝利法」ともいうペき乞食の処世術を感じとっている。それは魯迅が一世紀近くも前に「阿Q正伝」で、やりきれない痛みをもって描いた中国人の姿であった。
本書に描かれているのは中国の乞食の姿である。飢饉にあったある農村の党支部書記(村長)が、村民を引き連れて物乞いに出るとか、あてもなく農村から都市に流入する「盲流」とか、きわめて中国的な事例が出てくる。しかし、ほとんどの事例はその類型を世界中どこででも見ることができるのだ。
乞食は中国の問題であるだけでなく、世界の問題であり、日本の問題なのである。訳者岡田陽一は文明論ともいうべき長大な「あとがき」を書いているが、そこで彼は「良心の呵責」が本書を訳出した動機だと言っている。高度成長以前の東京にはたくさんの乞食がいた。子供たちはその悲惨さに恐れ、ときには石を投けた。親は「怠けているとああなるのですよ」と子を諭した。いま、私たちは乞食を外側の存在、異形の者とみたことに対する「良心の呵責」が鈍ってきている。それは精神の荒廃を意味するのではないか。
本書を読んでいると、乞食は社会現象であるだけでなく、人間の性の問題であり、自分の問題であることを実感する。繁栄の時代にこそ読まれなければならない本である。(河田宏)
1991.11月号 「波」新潮社
南雲 智
今や日本では「貧乏」という言葉が死語になりつつある。そんな日本の社会で生きる浮浪者たちには、世界中でもっとも糖尿病が多いという統計さえあるらしい。彼らこそは、最大の自由人だと言えるかもしれない。
だが、これは日本の浮浪者事情で、中国ではそうはいかないようだ。『阿Qの王国−中国浮浪者列伝』(中国語原題『中国的乞丐群落』劉漢太著・岡田陽一訳、革風館刊)は、それを教えてくれる。
突撃インタビュー形式で再現した彼らの声は、小説より数倍も迫力がある。とにかく圧倒された。社会主義を理想としてきた中国に、1985年現在、100万人以上もの浮浪者が存在しているというのだ。
こうした人々のすべてが、帰るべき家を持たないわけではないし、放浪生活を始めた一原因も貧困だけではない。閉塞した農村から幻影を求めて都市に流入してくる者、姑との仲がうまくゆかず、婚家から飛び出した嫁、両親の過大な期待に耐えきれなかった少年、共産党員の男など……とにかく自由への逃避者が結構多い。だからこそ収容所に入れられるのを極端に恐れる。
彼らは生きるために、大道芸人顔負けのテクニックと小道具を駆使して、浮浪者としてのパフォーマンスを見せる。また、かっぱらい、売血、売春など、およそ日本にある商売(?)のいずれかには関わっている。その中には、日本のやくざまがいの組織まであり、それなりの仁義を切らないと、半殺しのめにあったり、縄張り内での活動は認めてもらえない。
この本にはまた、物乞い、歌、ののしり歌など、特殊な「文化圏」の民歌が採集されていて、彼らの生活者としてのしたたかさ、たくましさを教えてくれる。たとえば、「ご主人たんと儲けたそうな ご主人が儲かれば私もあやかりましょう あなた様は餃子を 私めにはスープを 一に拝んで金のため 二に拝んで銀のため 三に拝んでご主人大善人」、「この手は生きた福の神 手招きすればお宝やってくる 厚顔無恥とて恐れはしない 皮が薄けりや生きられぬ」などなど。
著者の立場は、浮浪者を社会的公害とみなし、その警鐘者になろうとしているらしいが、それとは別に、社会主義国にだって浮浪者がいることを伝え、人間的な面を見せてくれた勇気に、わたしはむしろほっとしている。
思いなおせば、今、日本などに来て働いている中国人も、最初は生きるために選んだ放浪の旅路ではなかったろうか。
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