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 『母の「京城」・私のソウル』沢井理恵著

■母と娘の二人三脚によって歴史の底から浮かびあがる光と陰のソウル。敗戦の時二十歳で「京城」から引き揚げてきた母。…そして今、初めて訪れる娘にとっての「私のソウル」とは■  

ISBN4-88323-087-2 C0095 四六判 192頁 1996年刊 定価 本体1,942円+税

◆目次より◆
一 ソウルと「京城」のはざまで
二 母の「京城」
  「京城」というところ
  「京城」という名前/洞から町へ/朝鮮総督府/ 植民地一世と植民地二世/生母の死/五つの王宮と離宮  
  小学校時代
   南大門小学校/新しい母/官舎住まい/祖父母/お墓/支那町/レストラン/食生活/本町界隈と写真館/百  貨店/長谷川町/猩紅熱/引越し/旅行/スケート/りんごの産地/お祭り/季節の行事/光化門通り  
  女学校時代 
   京城第一公立高等女学校/女子中等教育/ゲンさん/新橋町の借家/育ての母/映画館/ラジオ/朝鮮の言葉  /南山と朝鮮神宮/府民館/黄金町通り/京城駅/修学旅行/衣服のこと/入院/大東亜戦争/景福宮の北側/  勤労動員/アイドル
  引き揚げまで 
   卒業/清和女塾/京城帝国大学予科/就職/八月十五日/引き揚げ
三 私のソウル 
 初めてのソウル  
   ソウルにやってきた/南大門市場/パゴダ公園/教保文庫
  ソウルから戻ってきて 
   加害者と被害者/朝鮮半島/差別と偏見
  ソウルの街角で
   ソウルで出会った人々/ソウルで考えたこと
  玄界灘を越ぇて
   母とソウルを歩く/新橋町の家

                      1996年8月号
                        韓国文化
                        本の紹介

著者の母がそこで生まれ育った、日本の植民地時代の朝鮮の首府「京城(けいじょう)」にいつまでも寄せる郷愁に満ちた思い出の話を、折にふれては語り聞かされた娘(著者)がありのままに書き留めた前半(母の「京城」)と、後年、著者自身が訪れた現在の韓国の首都ソウルで見たもの、考えたことをつづった後半(私のソウル)よりなっている。
  母は大正14年(1925)、京城で生まれた。父親は朝鮮総督府に勤める官吏。祖父母との5人家族だったが、やがて弟妹が生まれる。母の年齢はそのまま昭和の年号と重なり、昭和7年(1932)が小学校入学、昭和13年、13歳の年から女学校生活が始まり、昭和20年(1945)の敗戦、その年11月に日本に引き揚げたときは20歳であった。
  母の思い出は、当時の京城の街のこと、6歳のとき生母が4人目の子(末弟)を産んだ産後の肥立ちが悪くて28歳の若さで亡くなったこと、新しい母親が迎えられたことなどの幼い日から始まる。
  著者の曽祖父母の時代はもともと九州の博多で舶来洋品店を営んでいたが、親戚の保証人を引き受けたために借金の肩代わりをする破目になって破産、大阪の堺に移ったけれども新しい商売もうまくいかず、新天地を求めて、朝鮮に移住していったのであった。母が女学校の時代、ある教師から、「きみたちは、内地で失敗した挙句、新天地を求めてやってきた流れ者の家の子だから」というようなことを言われたことがあるそうだ。官吏や教師、サラリーマン、職業軍人などで赴任先が朝鮮だったという人を除けば、確かにそういった「訳あり」の人びとも多かっただろうと思う、と著者は記している。一家の移住は、明治41年(1908)、日韓併合の2年も前のことで、著者の祖父(すなわち母の父)が尋常小学校5年生のときであった。
  生母が亡くなったあと、子供がみな幼かったため、父はねえやさんを頼んだ。まだ若い朝鮮人のねえやさんで、みんなから、はなさんと呼ばれて親しまれた。著者の母たちは1年ちょっとの間、このはなちゃんに面倒をみてもらった。漢字や朝鮮の数の数え方も、はなさんから教えてもらった。母は今でも、ハナ、トゥル、セッ、…アホブ、ヨール、と驚くほど良い発音で口にする。ねえやさんのひざに抱かれて耳元で覚えた最初の朝鮮の言葉であった。
  南大門小学校時代、京城第一公立高等女学校時代と、少女時代の楽しい日々、戦時下の勤労動員のことなどのあれこれから引き揚げまでと、思い出はつづく。
  著者は、かの地で「楽しい、懐かしい」娘時代を過ごした母の「京城」での暮らしぶりを書くことに、一体どんな意味があるのだろうか、と何度も自問したという。けれども、幼女期から思春期を、「京城」という特別な運命を担った町で成長した一人の女性の話を具体的に記録にとどめておかずにはいられなかったのである。
  フリーの編集者である著者は、1989年に初めて韓国に旅行した折、パゴダ公園を訪れた。ここは大正8年(1919)3月1日、独立宣言文が朗読され、独立万歳が叫ばれた公園である。著者は、ボランティアでこの公園の由来を説明している劉載晃という人に出会い、由来話のほかに、
  1920年生まれの戦前戦中の体験談を聞いて強い印象を受ける。 1992年には著者は母とふたりでソウルを訪ねた。ソウルに着くと、うれしさに「顔つきまで変わる」母の、ノスタルジーの旅のお伴をする。
  「京城」という町に生まれた悲哀を感じながらも今なお愛着を抱く母、その母のおかげで朝鮮・韓国に直接触れるチャンスを与えられたことを感謝する娘の姿が、ここにはある。

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