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 『銀のしずく●知里幸恵遺稿知里幸恵

たった一冊『アイヌ神謡集」を残して一九歳で逝った「その短い生涯は実に露にぬれた真紅の花びら」のようなアイヌの女性の珠玉の遺稿集。残された日記と両親に送った手紙で構成。
     シロカニペ ランラン ピシカン 銀のしずく 降る降る まわりに
     コンカニペ ランラン ピシカン 金のしずく 降る降る まわりに

           (カムイユカラ 「ふくろうの神の自ら歌った謡」より)    
ISBN4-88323-052-X C0095  四六判188頁 1984年刊 本体2,000円+税

 

●目次●
口絵梟の神の自ら歌った謡 礎稿
神様に惜しまれた宝玉― ―知里幸恵略年譜
『アイヌ神謡集』序
手 紙 知里幸恵写真帖
日 記

1983.12.18
北海道新聞
日記につづった民族の声
ユーカラの名訳 知里真志保 遺稿集出版へ

「銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに」のユーカラの名訳で知られる知里幸恵の手紙と日記があ、没後61年目で初めて出版される。アイヌ文化を継承する語りや「赤ちゃんが欲しい」など少女らしい思いが交錯するこれらの遺稿は、知里家ゆかりの人たちの間で保存されていたもので、20歳前につきた女性の内面の記録として感動を呼ぶだけでなく、アイヌ文学研究史などにも欠かせない資料となりそうだ。 幸恵は、北大教授だった故知里真志保博士の姉で、登別生まれの旭川育ち。恵まれた才能で口承文学を受け継ぎ、アイヌ自身による最初のユーカラの記録とされ「銀の……」を含む「アイヌ神謡集」を遺している。大正11年(1922年)9月18日、身を寄せていた東京・本郷の金田一京助博士方で持病の心臓病のため急逝した。まだ19歳の若さだった。 没後、神謡集と研究ノートが公刊されたが、今回ようやく手紙と日記が「知里幸恵遺稿 銀のしずく」として草風館(東京・神田神保町)から出版されることになり、道内では20日に発売の予定。このうち日記は、亡くなる直前に大学ノートに記した大正11年6月1日から7月27日までのもので、長く所在不明だったが、数年前、金田一家で再発見、知里家の関係者に返還された。 手紙は、13歳から亡くなる直前までの17通で、うち13通までが両親の高吉、ナミあて。これまで絶筆とされていた手紙より10日後、9月14日付の両親あてのものも含まれている。亡くなる4日前に「私にしか出来ない使命をあたえられてることを痛切に感じました」(原文のまま。以下同じ)と、神謡の伝承・記録者としての自覚から、さらに持病を克服して務めを果たしたい思いが連綿とつづられている。 「それは、愛する同胞が過去幾千年の間に残しつたへた、文芸を書残すことです。この仕事は私にとってもっともふさわしい尊い事業であるのですから、過去20年間の病苦、罪業に対する悔悟の苦悩、それらのすべての物は、神が私に与へ給ふた愛の鞭であったのでせう…」。 日記には東京の猛暑で体が弱って中断するまで、毎日が時には詳しく、時にはメモ風にペンで記されている。「今日はおうち(金田一家)でフロックスの花を買った。花を見ると、お父つぁんが思出されて仕様がない」(6月4日)、「いただいた着物を早速着て出かけたのだ。嬉しかった」(同14日)、「(同家の)赤ちゃんをおんぶして外へ出る。何だか自分が母親になった様な、涙ぐましいほど赤ちゃんがかわゆくて…。子供が欲しい」(同29日付)。 これらの遺稿で、彼女が名訳に表れているような達意の文章家であったことを改めて裏づけるとともに、「私が東京の地をふんでからちょうど1月たった」(6月13日付日記)というくだりから、上京したのは5月13日らしいなど、新たにわかった事実もあるという。 これまで手紙のうち9通ほどが藤本英夫・道埋蔵文化財センター常務理事の幸恵伝「銀のしずく降る降る」に引用されたが、日記は1日分だけが金田一博士の随筆に引用のかたちで紹介されただけ。今回の出版に当たり編集に協力した藤本さんは「入手できる手紙と日記のすべてです。素直に打ち明けられる“民族の声”に、耳を傾けてほしい」と話している。

1984.5.5
キリスト新聞
銀のしずく

著者は1922年(大正11)、19歳の若さで心臓病のため亡くなったアイヌの天才少女で、著名な言語学者知里真志保氏の姉に当たる。 同書は彼女の手紙と日記を編集したもので、キリスト者としての魂の成長が美しい文章につづられ、胸をゆさぶられる。 金田一京助氏から上京を勧められ、19歳で金田一氏宅に寄寓。4カ月後に死亡するが、金田一氏は、著者が同氏宅に滞在中に記していた日記を死ぬまで秘蔵していた。 金田一氏が記した次の文は、著者の信仰をよく表している。 「幸恵さんの短い生涯は実に露にぬれた真紅の花びらのように見えます。あらゆる不幸な人々を心の底から傷んで、祈り続け、自らは始終涙に濡れながら、ただ人の幸福のために生きて行かれたその半生、本当に感謝と祈りとの殉教的生活であったのです」

1984.1.30
北海道新聞夕刊
知里幸恵の愛と死

初公開された日記に思う
萩中美枝

知里幸恵が、寄寓先の金田一京助博士の家で急逝したのは大正11年(1922)秋。61年後のいまになって、幸恵の日記が「知里幸恵遺稿 銀のしずく」(草風館)として発刊された。 この日記は、幸恵がユーカラなどの筆録のため、同年5月に上京してから死の直前までの生活をつづったもので、博士が終生秘蔵していた。当時、幸恵は19歳。情感の豊かさは、その著「アイヌ神謡集」で立証済みであった。博士が日記を秘蔵して手放さなかったのは、幸恵との間に異性としての情合があったからではないか、と取沙汰されたりした。アイヌ神謡集は、いまでも貴重な文献として版を重ねているが、それに博士は「とこしへの宝玉…」と讃辞をおくり、その後もたびたび幸恵にふれている。「北の人」(昭和17年)には幸恵の写真とともに、次の文章が見られる。 …本当にお互ひに心から理解し合って入神の交りをしました。涙を流してアイヌ種族の運命を語り合ふことが習慣のやうになりました。―中略―私がびっくりして抱きかゝへて幸恵さんゝゝと連呼をした時に、二度返事をして、それっきり、もう答がなくなってしまはれたのでした… 弟の真志保が処女作を発表したのは昭和2年、雑誌「民族」での「山の刀★・浜の刀★物語」だった。紹介したのは金田一博士で、「幸恵さんの再来のやうに思へて、一行一行涙の目を押拭ひつつ読まれた」と記していた。 真志保は「思ひがけない賞金と賞讃を」もらったと博士に感謝していたが、「アイヌ民譚集」を出した12年ごろから次第に恩師を批判するようになった。とくに「アイヌ語入門」(31年刊)での筆勢のするどさは、世の人びとに敵意ある攻撃とみられ、博士と真志保の不和説が広まった。原因は幸恵の日記だときめかかる者もいた。にもかかわらず、博士はその著書を大学の講義用テキストとして真志保の死後も毎年購入され、生前の真志保も「先生だけは、わかってくださる」と、いばっていた。 真志保は、幸恵が旭川の女学校を卒業した翌大正10年(1921)、高等科(いまの中学)1年で、二学期から幸恵と同居するようになった。そのころ、幸恵には村井さんという幸恵より3歳年上の恋人がいた。私の夫の真志保は昭和36年に亡くなったが、その3年ほど前、こんな話をした。 ある晩、幸恵は村井さんのところに出掛けたまま、なかなか帰ってこなかった。真志保は、何度も玄関に幸恵の下駄の有無を確かめに足を運んだ。朝になって外を見ると雪であった。その雪の上に、いまつけられたばかりの下駄のあとが玄関まで続いていた。 「いままでは、ほんとうによかったと思ってる。あの時代に、あの若さで人を愛することを知っていたんだから」。いったん口をつぐんだ真志保は、おだやかな顔で言い足した。「姉が先生を好きになったとしても仕方ないやね」 真志保が死んでから、その「仕方ない」ことを博士に言ったとき、博士は突然涙をこぼし「そんなことはありません。幸恵さんは、ただ、私に同情してくれただけなのです。ほんとうに、それだけなのですよ」と嗚咽された。東京・雑司ヶ谷の幸恵の墓を訪ねたときも、しゃがみこんだまま「幸恵さん、幸恵さん…」と語りかけ、なかなか起き上がろうとはされなかった。 博士は46年に他界された。その告別式を終えた足で、アイヌ語地名研究を通じて博士や真志保と親しかった山田秀三さんたちと、幸恵の墓参りにまわった。霊園管理事務所の台帳には、墓の所有者・博士が、土地の使用料を50年にわたって払い続けていたことがしるされてあった。 50年夏、幸恵の墓を登別に移すことになった。雑司ヶ谷の墓の始末にきた幸恵の妹のMは、そこでご子息の晴彦氏から、くだんの日記類を手渡された。そのことが知れると、Mを訪ねる人が多くなった。生徒たちに読んで聞かせてやりたいという先生や、解説をつけて共著にした、と言う人もいた。そんな人たちの相手をしているうち、Mは「いっそ公開して、それぞれがそれぞれの気持ちで読んでほしい」と思うようになった。60年後に初公開された本が、序文やあとがき、解説さえない体裁になったのはこのためである。 日記の間に一通の手紙があった。幸恵が死の4日前に出した手紙であった。Mは、幸恵の死を知らせる電報と同時に届いたのではないか、という。その手紙を握りしめたまま、幸恵の父高吉が上京し、金田一家に置いてきてしまったのだろう。 手紙には、医者から結婚不可という診断を受けたことを両親に報じてあった。 ―此のからだで結婚する資格のないことをよく知ってゐました。それでも、やはり私は人間でした…充分にそれを覚悟してゐながら、それでも最後の宣告を受けた時は苦しうございました…村井が何んな事を感ずるかと云ふことが私の胸を打ちます。…昨日…知らせてやりました。何んな返事が来るかー 幸恵は、村井さんの返事を聞かないまま逝った。(日本口承文芸学会理事)

参考:草風館版
銀のしずく降る降るまわりに●知里幸恵の生涯』藤本英夫著

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