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 『チマチョゴリの日本人』金 纓(キム・ヨン)著

■海峡を渡ったソウルの花嫁。金素雲を父とし、日本人牧師と結婚したハングル世代が往来した
  ソウル妖豕の 二都物語
四六判 縦組 200頁 1985年刊 新版1993年刊 増刷出来
ISBN4-88323-66-X C0095 定価 本体1500円+税

〔目次〕
タンポポの章 カルチャー・ショック/正義は勝つ/日本人との出会い/反日教育/隣り人/ 反日本人論
さくらの章 初めての日本/結 婚/川 崎/日本語で話したい/国際結婿/知恵の知恵/日 本の中の韓国文化
コスモスの章 故郷・韓国へ/「われらは正義派だ」/「余計な税金」/美しきアメリカ/祖国を追われる
むくげの章 主婦学生/父・金素雲/チマ・チョゴリの日本人/和服か、チマ・チョゴリか/教育ママ/玄海灘の  架け橋

朝日新聞「著者と一時間」1985.6.17
『チマ・チョゴリの日本人』は、日本人牧師と結婚して十五年になる韓国女性・金纓さん(37)の半生記。表題には、法の上では帰化して日本人になっても、実際の生き方ではあくまで韓国人であり続けたい、という金さんの願いが込められている。「私たち、解放後の韓国に成長した世代は、国への誇りを持っています。その誇りと結びついた韓国の戦後世代の明るさを、この本から感じ取っていただけれは幸いです」金さんたちの世代は戦後の反日教育の中で成長し、実態を和らぬまま日本に敵意を感じていた。それで、日本の朝鮮植民地化の罪責感から、日韓の真の和解の道を求めてソウルの大学の神学郡に留学していた現在の夫から、突然に求婚された時も、喜びよりも悔しさが先立った−と自分たちの結婚の経緯から書き起こし、「ユンニチハ」も知らずに来た日本での日本語習得の苦労、韓国に比べあまりに貧しい日本のキリスト教会の現実を知った時のショック、宣教師として再び韓国に赴任した夫が、共産主義者と目されたクリスチャンをかばったのがもとで一家ともども韓国を追われることになった悲しみ、などが率直につづられている。二人の中学生の母親としての教育論、女性の自立論、と読むこともできるが、どのような場合にも自分の心にまっ正直に語ろうとする姿勢が印象的だ。「苦労は多かったにしろ、日本での生活は私の人生を豊かにしてくれました。二つの民族が批判しあうにしても、そこに愛とユーモアのゆとりがあれは、必ず心は通じ合うと信じています」金さんの亡父は、韓国きっての知日派文学者・金素雲氏。金氏は日韓両国それぞれの正しい姿をその双方へ伝える仕事に生涯をかけた。「父が日本で感じていたことが最近よく分かるようになりました。“親日派”と誤解されて韓国人に殺された父方の祖父とあわせ、日韓のわだかまりの中に生きた三代の家系の歴史を、いつか書いてみたいと思っています」夫の教会で副牧師をつとめるかたわら、国立国語研究所で日本語を学ぶ努力家である。

毎日新聞評1985.6.17
延世大学神学部生だった著者は、留学生の日本人かり求婚された。トランク三つだけの嫁入り道具をさげて羽田に着いたのは、日韓条約五年目の一九七〇年だった。はじめて手にした千円札には、日韓併合の立役者・伊藤博文の像が刻まれてあった。日本基督毅団に属する夫の、新婚の任地は川崎だった。韓国のキリスト教の大会堂とは比べものにならぬ貧しい牧師館。煙害と工場騒音によって、子は二人とも喘息となった。信徒をはじめ、親しい友との交際によって、日本語に慣れてきたころ、任地が韓国へ、ついでアメリカヘと移る。妹が、大学で英字新聞を編集したかどで、軍事裁判で七年の懲役刑を受け、夫妻は母とともに「拘束者家族協議会」の中心となって働く。金芝河氏の母など、知恵者という意味で「おばあさん」と敬称されるオモニたちの日常が、ゴーリキーの『母』さながらの迫力で、韓国民主化闘争をささえる魂たちの陰影と清節とを読みとらせる。著者の父は金素雲であることが、さりげなく書かれてある。戦前に岩波文庫で『朝鮮民謡選』などを編訳して北原白秋らを驚喜させ、いま講談社学術文庫で『三韓昔がたり』が刊行された天成の詩人。韓国政府が文化勲章を授与した日に、著者の母と妹は光州事件「関連」で指名手配された。この著者の筆づかいも、淡々と事実を語り、つつしみ深く感情の軌跡を記すことで、かえって読者の胸の奥にふるえにも似た感動をゆりおこす。アメリカでの生活記録とともに、韓国、日本と三つの伝統が各所でいつでも対比されているのだが、西洋にはない抑制された文体が、魯迅のある種の小説を読むときのような長く深い呼吸をいざなうのはなぜだろう。著者は、チマ・チョゴリに誇りをもつ日本人だと自称しつつ、いまは和服を着ることへの抵抗感が融けてきているともいう。そこへ至るまでの、二十年という年数では測れない心理約な道程が、もっとも近い隣国のひとびととのつき合いのありかたについて、真率な反省と明るい信頼とを示唆してやまない。

毎日新聞「余録」1985.6.8 
日本人と結増するというと、父が強硬に反対した。「韓国人のお前が日本人と結婚するのは、余計な税金を一生払い続けねばならないことを意味する。娘が多額の税金のために苦しむのは、見るに耐えない」▲父は「朝鮮詩集」「朝鮮童謡選」などで知られた詩人・金素雲さんだ。十二歳のとき日本に渡り、人生の大部分を日本で過ごした。その父でさえ「日本人と韓国人との隔たりを少しでも縮めようと生涯をかけたが、考えてみると、ざるで水をくむようなこと」などという▲両親に限らず、まわりはほとんど反対だった。それでも金纓さんは結婚に踏みきる。相手はソウルの延世大学で知りあった日本人留学生、沢正彦さんだ。東大法学部を出て東京神学大学大学院に学び、韓国人牧師の説教を聞いて韓国に留学した変わり種である▲金さんが日本の土を結んだのは一九七〇年の冬だった。ハングル世代で「こんにちは」もいえない。教会で行われた結婚式もチンプンカンプン。猛勉強がはじまった。買い物に行けば、いちいち名前を聞く。「これは何ですか」「それはサンマ」「サーンマ」「そう」▲翌年、知恵ちゃんが生まれた。その年の外国人弁論大会で、金さんはいまに知恵にこう語るつもりだと述べた。「皆が”あいのこ”といっても、それは”愛の子”なんだよ。お父さんもお母さんも日本と韓国が仲良くなるよう努力しようと思っているの。だからあいのこに誇りをもって生きるのよ」▲父も許してくれた。「父が生涯をささげた”玄界激のかけ橋”のまだ足りない部分に、小さいエネルギーを注いでいきたいと願っております」と金さん(「チマ・チョゴリの日本人」)。日韓国交正常化が実現して今月で二十年になる。

東京新聞評1985.7.12
日本人と結婚した韓国の花嫁の手記である。延世大学神学部生だった著者は、そこで日本人留学生に求婚される。戦後世代として、徹底した「反日」教育のなかで育った著者は、当時、日本人との結婚なんて夢にも考えなかったと述懐している。しかし運命のいたずらか、結婚を決意して羽田に降りたったのは、一九七〇年。一言の日本語もしゃべれず、手にしていたのは、たったトランク三つだけの嫁入り道貝だった。日本キリスト教団に属すろ夫との新婚生活を送ることになった川崎の教会は、韓国の大会堂を見慣れてきた著者には、信じられないほど貧しいものだった。最初は泣き出す始末だったが、持ち前の率直さと行動力で、次第に周囲からも親しまれ、二人の子供にも恵まれる。慣れない日本語にもやっと慣れはじめたころ任地が韓国に変わり、なつかしい故郷へ。韓国では、「民主化闘争」で、金芝河をはじめ、多くの人が獄中にあった。そして、もっとも身近な妹が、学内の英字新聞の編集から七年の懲役刑をうける。母や夫と共に、著者は「拘束者家族協議会」の中心になって活動する。その文中、金芝河のお母さんのことなどが生き生きと描写されているが、民主化闘争の裏にある、日常的な世界か、ドラマの一コマを見るように追ってくる。 そして、これも運命的にすら思えるのだが、著者の父は、戦前に岩波文摩で「朝鮮民謡選」などを翻訳した金素雲である。北原白秋が激賞したといわれるその仕事は、日韓両国の交流と相互理解に大さく寄与したが、図らずも今、著者が同じような形で、「玄海瀬の架け橋」として、γ父の生涯を実践的に生きぬこうとしている。淡々とした筆の運びだが、読む者にしみじみとした感動を呼びおこすのは、著者の、この真摯な志のせいであろう。

関連著作
金纓『チマ・チョゴリの日本人、その後』
金纓『チマ・チョゴリのクリスチャン』
澤正彦『ソウルからの手紙』

 

 

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