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語りつがれた水俣の歴史/ 肌にしみこんだ時代の記憶がよみがえる■
●すいせん者●
色川大吉/太田薫/緒方登/鎌田慧/姜在彦
田上義春/立松和平/富樫貞夫/原田正純/星野芳郎
◆1990年毎日出版文化賞特別賞受賞◆
A5判 縦組 256ページ 1990年刊
コード ISBN4-88323-031-7 C1022
定価 本体3000円+税
◆第二巻/目次より◆
一 電気の唄――金山と化学工場
牛尾・大口金山回想
日本一の金山といわれた
手寵ン子
野口さんの曾木発電所
大吉茶屋の娘
金山の垂れ流し
村に工場が建つ
電気柱の唄
臍ソ出た
悪い評判
二 化学労働の始まり――明治末の石灰窒素工場
会社勧進、道官員
1 カーバイド工場
工場は赤ん坊も赤ん坊
煉瓦壁の中の高熱仕事● 自分の名前も読めない/カーバイド炉の変遷/一五〇〇キロ炉の仕事/二四時間働かされた 熟練と気質
カーバイド製品部
会社勧進、道官員
炭素工場
2 石灰窒素工場
ドイツからきた炉
焼いても焼いてもできない
鋼線で窒素を作る
藤山さんの発明
アレー、あんたかな?
その後の展開
3 鉄工部
明治の職人の世界
年期小僧
小僧哀話
係長の弁当/松次の死
工場の日々
東雲のストライキに習って
負け犬
カーバイド船の爆発
亡者の仲仕株
仲仕の仕事/藤山さんと野口さん
村の職工日記(大正3年)
三 蝟集する民衆――大正石灰窒素工場
従業員二〇〇〇人の新工場
かちがらすの群のように●鉄筋建ての工場が建つ/死霊風と狐の逃亡
太郎も次郎も
新しい特権階級
牛馬か、牛馬的労働か
カーバイドの女職工
粉塵と会社病
腕力と亜硫酸ガス●鉛室の作業
牛馬と思え●身体だけで荷役した/運搬夫/青しゅりと怪我/畜生と思って使え/クレーソが据わる
立場を変えた満州での経験●やめて、電気化学撫順工場に行く/ラサ島燐鉱株式会社
鏡工場暴動、日給上がる
鏡工場のストライキ
会社の米
潮の変わり目●職工から準社員に出世/先生たちまで工場に入る
四 「会社」さまおかげさま――町へ発展
村と賃労働
目ソ玉所
八代から来た花嫁●会社の聯人と結嬉/おこもさんか、西蕃か/長着物着ただけで、おおごと/お汁のにごっとる所は、あるかないか/ひき脱ぐようによくなった
ゼロからの出発●会社行きがよか/夢をかなえる
女の隷属
町になる
文明開化●電気/帳面と押麦
乗り物
商人たち●工場へ町がにじり寄る/カラスとカイシャ
第二巻「村に工場が来た」1908〜1925年頃▼明治四一年、水俣村に小さな化学工場が建つ。夕方になると人も通らない、川下の淋しい場斬に。村の一角に異質な世界が、出現したのだ。赤々と燃える
電気炉というものがあり、湯気の出る石(カーバイド)を作るという。村の日 雇の日給よりなお安く、人を使うという。あそこに行けば、一日一人づつ死ぬ
げなという風評も立った。現金収入に苦しむ村人たちも、さすがに二の足を踏 む。工場に入ったのは、村の最下層の人たちであった。日本窒素肥料株式会社
の歴史の始まりである。 ▼村の小さな化学工場は、今にも潰れるという話だった。しかし、一〇年も経 つと、事情は一変する。廃止になっていた村の塩田跡に、従業員二〇〇〇人と
いう、大工場が新たに建設されたのである。今度は、村人こぞつて工場に入る。 一軒に二人の青年が居れば二人、三人居れば三人。それでも、水俣だけでは労
働者が足りずに、近郷近村、天草や長島などから、人々が蝟集してくる。一日本 の村の工業化は、どのようにして行われたのか。水俣村にとつて、工業化とは
何であったか。それが、本巻のテーマである。 ▼わたしたちは、建設の状況を見た後、幼年期と青年期の工場の内部に入り、 労働実態を調べる。工場の生産は、カーバイドから石灰窒素、石灰窒素から変
成硫安の製造へと、進んでいた。その労勧の特徴は、肉体労働中心であったこ とである。労働者は牛馬と思って使えといわれた。乞食から更に下がって牛
馬! 労働の本質もまた、牛馬的だったのである。 ▼工場がどれだけ支配力を持つかは、一日働いていくら稼げるかによつて決 まる。日本窒素が、熊本県八代郡鏡に建設した姉妹工場で、大正七年米騒動の
一環として、暴動的大争議が起きる。その影響で、水俣の地方的特殊低賃金が 是正される。その結果、工業化の生んだ賃労働は、労働の呪詛を越え、民衆の生
活の闇に射す光となった。民衆の側の凄惨な原始蓄積が始まり、人々は工業化 に歓呼し、結婚し子供を生み家を建てる希望を持つに至る。村はようやく文明
開化期を迎え、町になっていったのである。
■1990.10.17 ■
西日本新聞
日本の近代とは何であったか
岡 本 達 明
20年かけて歴史の根を掘り続けた
全5巻の刊行を終えて
私は根を知りたい 木には根がある。根の上に木がある。おお、私は根を知りたい。一つの渇望が私の中で育ったのは、いつのことであったろう。
私は1964年に水俣に来て住んだ。1950年代の水俣は、生産社会としての長い発展の頂点にあった。その最後の5年間に、チッソ工場の胎毒が地域社会の全身にまわっていた。水俣病だ。1960年代に水俣は、一挙に破局期を迎えた。水俣病のせいではない。チッソ工場が、新興の石油化学に太刀打ちできなくなっていったからだ。水俣病は、チッソによって闇の中に埋められていった。約3500人の工場の労働者は、危難に瀕した。闘争が起き、地域社会は分裂した。やがて水俣病患者家族も、地獄の中から闘争に立ち上がった。民衆は四分五裂という有様になった。私は、その亀裂の中で歴史の釜のふたが開き、長い時間をかけて形成されてきた民衆の情念が、さまざまに噴出してくるのを見た。おお、底は深そうだ。水俣はチッソの城下町だ、チッソの植民地的水俣支配だといった議論は、なんと民衆不在の、表面だけの、形容詞的断定であることか。
工場が来る前の村 私は、穴の中をのぞき込みながら、次のように問題をたてた。―まず、明治維新から敗戦に至るまでの水俣の歴史が、明らかにされねばならぬ。水俣の村と工場を、二つながら腑分けせねばならぬ。工場が来る目の明治の村。明治末に産声をあげ大きくなった最初の工場。激変していった工業化後の村。昭和初期に合成科学に転換した新しい工場。更に、全く異質な角度から水俣を照射するために、天草の漁民と植民地朝鮮興南を、調べねばならぬ。多くの島民の移住により、水俣の中には天草がある。農民の彼岸にある漁民の本質が、天草から見えてこよう。興南は、チッソが水俣から発展していった場所だ。昭和恐慌の折、水俣の民衆は興南へ興南へと、まるで民族移動のように海を渡った。水俣の村と工場の歴史をたどっていけば、いやでも植民地朝鮮に行きつくのだ。これら全ての世界で、民衆の生活と労働と意識は、どのようなものであったのか。―だが、そのような問題に答える文献資料は皆無だった。唯一可能な方法は、民衆からの聞書しかなかった。
6つのテーマで 1971年、私は松崎次夫(水俣工場の労働者だった)と2人で、意を決して長い一連の聞書に着手した。水俣中をくまなくまわり、村の古老たちや、かつての職工たちを訪れた。天草に渡り、必要とあれば東京にでも、どこにでも行った。私たちのたてたテーマは6つあった。1つのテーマを解くためには、100人前後の民衆の話を聞く必要があった。膨大な量のテープを文字に直し、粗編集するのに、2年半かかった。6つで、のべ約600人、のべ15年以上。おお、なんたる馬鹿。他に何もできぬ。だが民衆の話は、否応なしに、私たちをのめり込ませていく力を持っていた。どのテーマをとってみても、発見性に満ちていた。そして、語り手は高齢であり、どのテーマも解くべき最後のチャンスだった。私たちは、墓場の前で網を持ってかけまわっている、物語の採集人に似ていた。仕事が進んでいくにつれ、自分たちのしていることは、民衆にとって日本の近代とは何であったかを、深く掘り下げていく作業に他ならないことに気がついた。
相棒が不慮の死 1986年、16年めに不幸が訪れた。長年の仕事の相棒松崎次夫が、不慮の交通事故で死んでしまったのだ。2人とも、本にしようと思ってやってきた仕事ではなかった(「天草の漁民」だけは、1978年に別の編著書で既刊した)。しかし、遺児たちを見ていると、この子らに目で見える形で父親の仕事を残すのは、私の責任かもしれないと思えてきた。それを見て、長年私たちを激励してきた友人たちが、本にする段取りを進めてくれた。水俣の労働者が中心になって、刊行委員会もできた。私は気を取り直して、粗編集稿を大幅にけずり落とす、最終編集にとりかかった。同時に民衆の中に残っている古い写真を集めた。口絵として載せるためだ。―松崎次夫の死から4年、いま、草風館刊『聞書水俣民衆史』全5巻が、私の机の上にある。仕事に着手してから刊行を終えるまで、ちょうど20年の歳月がかかったことになる。なんと大勢の民衆の力で、なんと無数の誠意と協力で、産み出された5冊の本であることか。根を知りたいという私の望みは、達せられた。
参考:草風館刊全5巻
「聞書水俣民衆史」1
「聞書水俣民衆史」3
「聞書水俣民衆史」4
「聞書水俣民衆史」5
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